前回の「Rainbow Children」に続いて、今度は「Muse 2 The Pharaoh」を取り上げたいと思います。それでは早速、といきたいところですが、その前に私には告白しておきたいことがあります。実は、「Muse 2 The Pharaoh」はプリンスの数ある楽曲の中でも三本の指に入る衝撃を私にもたらした曲です。一つは「Goodbye」を初めて聴いたとき、もう一つは「Last December」を初めて聴いたとき、そしてこの「Muse 2 The Pharaoh」です。

「Muse 2 The Pharaoh」はアルバムの中でも割と地味な印象があるかもしれません。一体この曲のどこにそれほどの衝撃があるのかと不思議に思うかもしれません。しかし、この曲を境に、私のプリンスの音楽、引いてはプリンスという存在に対する捉え方は、根幹部分で大きく変わりました。「ビフォー・ミューズ・2・ザ・ファラオ」に「アフター・ミューズ・2・ザ・ファラオ」、私のプリンス歴の中では、「Muse 2 The Pharaoh」は紀元として採用しても差し支えないほどの変化をもたらしました。

今回はまだ「Muse 2 The Pharaoh」のことは書きません。あまり直接的な関係はなく適切な前置きになっていないかもしれませんが、少し雑多な話をします。

志村けんの「愛のペガサス」評

志村けんの追悼企画として、志村けんにより執筆された80年代ブラック・ミュージックのアルバム解説原稿がネットに再掲載されています。その栄えある第1回に、プリンスのセルフタイトルのセカンドアルバム「Prince (邦題: 愛のペガサス)」のレビューが選ばれました。ちなみに日本ではプリンスのファーストアルバムはリアルタイムで発売されず、日本で最初に発売されたのはこの「愛のペガサス」となります。

上のリンクに目を通していただけましたでしょうか。短い原稿なのですが驚くべきはその内容です。このレビュー、ちょっとお目にかからないレベルで的確なのです。「フヒャー! 何んだこの野郎はという感じである」、「このレコードまさにレコードのヴァラエティ・ショウである」といった率直かつ妥当な総評の後、その総評を裏付けるために各曲の印象がきちんと述べられています。普通、音楽ライターによるプリンス評は、表現が誤魔化されるか、聴くべきポイントが外されるか、あるいは無視されるかのいずれかであることが多いため、作品に真摯に正面から向き合って書かれたこのレビューは、個人的にちょっと驚きでした。

ディスコ調の “セクシー・ダンサー” は今までのディスコ曲とは異なる新鮮さを備えている。間奏に入る息使いなんかお主なかなかやるなあといえる。歌詞がわからないのが残念だ。

原稿スペースが限られているためこれだけで全体の三分の一近くを占めているのですが (笑)、単に音楽作品としての質の高さや幅の広さに言及するだけではなく、この時点では日本に情報が存在しなかったプリンスというアーティストのユニークな部分を見逃さず、それを作品の聴き所の一つとして紹介しています。着眼点が鋭く、かなり優れたレビューだと思います。

男性のファルセット、そして Adore と加山雄三と The Morning Papers

作品への驚嘆と賞賛に溢れた志村けんの「愛のペガサス」評ですが、最後に一歩引いた発言もしています。

ただ難をいえば彼のファルセット・ヴォイスは、人によって好き嫌いがあるだろう。

これもなかなか考えさせられるコメントです。これは、プリンスに限った話には留まらず、男性のファルセットに付きまとう本質的な問題を突いていると思います。

基本的に、男性のファルセットとは聴く者の耳に違和感を引き起こすものです。考えてもみてください。メスに求愛行動を起こすとき、甘いファルセットでバラードを歌い出す野生動物などいるでしょうか? 普通、オスというものは、メスに求愛するとき、ひたすら自分を強く大きく見せようとするものです。男らしさと相反する甘いファルセットは、ギャップを生じさせ、違和感を引き起こします。ただしその違和感は必ずしも否定的な感情を呼び起こすものではありません。男性の自然な低く太い声に対して、威圧感の少ないファルセットは、「自分を恐れる必要はない」というメッセージにもなり、安心感を与え、人を惹き付ける魅力にもなります。とはいえ、普通はどこまでいっても違和感が完全に打ち消されることはありません。全ての曲がファルセットで歌われる「愛のペガサス」が人によって好き嫌いがあるだろう、というのはそういうことだと思います。並ぶ楽曲は疑いようもなく驚異的ですが、ファルセットの違和感をどう受け止めるかによって確かに評価が変わる作品なのだと思います。

1991年の「Diamonds And Pearls」でプリンスを聴くようになった私も、当時「Insatiable」のようなファルセットのバラードは少し不思議な感覚で聴いていました。しかし、プリンスのディスコグラフィーを遡って聴いていくうちに、私はプリンスだけは何かが違うのではないか、と徐々に感じるようになっていきました。中でも、畏れ多い曲なので未だにブログで取り上げていないのですが、「Sign O' The Times」(1987年) に収録されている「Adore」は私の固定観念を大きく揺るがせました。

YouTube を検索すると、「Adore」は様々なカバーが見つかります。殆どあのとんでもないオリジナルバージョンに忠実に歌うしかなく、歌唱力や表現力に相当な自信がないと歌えない曲ですが、そんなハードルの高さを乗り越えてくるだけあってどれも素晴らしいパフォーマンスばかりです。しかしながら、ファルセットの違和感を完全に打ち消している人は誰もいないように感じます。といってもそれは当たり前で、そもそも男性である限り、違和感が消えるなんてありえないはずなのです。

しかし、プリンスが歌う「Adore」ではそのありえないことが起きていると私は感じます。私には、本来あるべきはずの違和感が完全に消滅しているように感じられるのです。プリンスならどの曲でも違和感が消滅する、というわけではありませんが、少なくとも「Adore」ではこの不思議なことが起きていると感じます。

ちなみに私には、何となく「Adore」と似てるなあ、そして似てるのに全然違うなあ、と思う曲があります。加山雄三の「君といつまでも」です。おいおいと突っ込まれるかもしれませんが、似ていると思うのは大筋としての歌の内容です。全然違うと思うのは、加山雄三は「幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ 僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ」という語りの後にファルセットで歌い出さないところです。

そして、私には「君といつまでも」と似てるなあ、と思う曲があります。それは私の選ぶ曲の第7位、「The Morning Papers」です。どこが似てるかというと、ラブソングでは女性に主導権を握らせることが多いプリンスが、珍しいことにこの曲では全面的に男らしさをアピールしているところです。それも決して粗暴ではなく、「この人なら私を守ってくれる」と思わせるような男らしさを。「The Morning Papers」がお気に入りの第7位だなんて不思議なチョイスだと思われるかもしれませんが、その理由はこれです。一回り以上も若く、(この曲の中では) 幼いとさえ思えるマイテに向けて、男らしさを懸命にアピールするプリンス。これが私には凄く特別なものに思えるのです。

「The Morning Papers」では、プリンスは殆どのボーカルをファルセットではなく普通のレンジで歌い、ミュージックビデオではマイテと砂浜を駆けたり、当時流行りのグランジファッション的なシャツを着たり、ピアノの上に飛び乗ってギターを弾いたり、後半ステージの後ろで突然ドカンと火柱が上がったり、ギターを放り投げたり、オーディエンスにダイブをしたりと、本当に一生懸命色々と頑張ります。

今回の記事は「Muse 2 The Pharaoh」について書くつもりだったのですが、あまり直接的には関係のない文章になってしまいました。「Muse 2 The Pharaoh」については改めて書きます。