懐しいのではなく、新しい

プリンスのことをブログに書くようになって、もうすぐ3年が経ちます。

ある曲をブログで取り上げようと決めたら、何を書こうかと考えながらその曲を何度も何度もリピートして聴く。その繰り返しをずっと続けています。このように1つの曲を延々とリピートする聴き方は、現在の私にとって、プリンスの音楽の基本的な聴き方になっています。

このブログで取り上げている曲の殆どは、私にとってはずっと昔から知っていた曲です。当然それぞれに長年の思い入れがあります。当初はそういった私の思いをある程度の記事にまとめて済ませるつもりでした。それでいったんの区切りを付けようと考えていました。

ところが、ブログを書き進めるうちに、私を困惑させる予想外の事態が起きました。昔からの思い入れがあるにもかかわらず、それぞれの曲を聴き直しても、なぜか「懐しい」という気持ちは心の底に沈んだまま、一向に湧き上がってこないのです。それなら他の音楽はどうだろうと、試しに他の音楽も聴いてみましたが、プリンス以外の音楽ではこのような心境にはなりません。他の音楽は、まるで「それが当たり前でしょ」といわんばかりに、どれもそのまま懐しく感じるだけです。

プリンスの音楽にまつわる思い出は確かに私の中に存在するので、それをブログに書くこともあります。しかし、プリンスの音楽を聴いたときに「懐しい」という思いがクリームのように一番上に浮かび上がってくるかというと、そうはなりません。ずっと昔から知っている曲ばかりなのに、懐しさを打ち消す感情が心の中を渦巻き、不思議なことに、それどころか逆に「新しい」と感じられるのです。

このように感じる理由はなぜなのでしょうか。

プリンスの音楽は聴くたびに新しい発見があります。そのためか、古くから知っている曲であっても、まるで新曲を与えられたかのような気分になります。それがこの理由なのでしょうか。確かにプリンスの音楽にはそういう面もあります。そこで今回の記事タイトルをこう付けました。

しかし、一番の理由はそれではありません。記事タイトルはこう付けましたが、「新しい」というのは、どうも本質を突いてはいないように思います。本来、それは単なる娯楽のように「懐しい」とか「新しい」という尺度で測るべきものではないのだと思います。言うなれば、時代の変化に左右されない芸術の本質がそこにあるために、私はこのように感じるのだと思います。

まだ記事は続きます。

どうして時代小説ばかり書くんですか?

私の好きな作家、隆慶一郎のエッセイ集「時代小説の愉しみ」に、次のくだりがあります。

「どうして時代小説ばかり書くんですか?」
この頃よくそう問われる。
私の答はきまっている。
「死人の方が、生きてる人間よりも確かだからでしょうね」
皆、ちょっと変な顔をして笑うが、私は本当のところをいっているのだ。

これは私にとっては印象深い言葉で、プリンスとは関係のない2014年のブログ記事でも話題にしています。

以前の私は、この言葉をプリンスと結び付けて考えたことはありませんでした。ですが、この3年間、ずっとこの言葉が私の頭にあります。

ここで言う「確か」とは、一体どういう意味なのでしょうか。確かに私は、プリンスについて何かを書くという、あの日が来なければ決してしていなかったであろうことをしています。ですが、今はまだ、ただただ不思議なことをしている気分です。言ってみれば、まるでこの世にいないのは私自身であるかのような気分です。隆慶一郎の言葉に「なるほど」と唸る反面、私にその本当の意味が見えているのかはまだ分かりません。

これについてはこれ以上書けそうなことがないので、かわりに少し違うことを書きます。


以前の私には、音楽というものは聴けばその価値が分かるものだ、という考えがありました。たとえ音楽の詳しい理論や技術は分からなくとも、それを越えて純粋に伝わる価値が音楽にはあり、その部分の価値は音楽を聴けば判断できるものだ、という思いがありました。

ですが、他の音楽はともかく、ことプリンスに関しては話はそう単純にはいかないとつくづく感じます。

これとは少し違う文脈になるのですが、個人的にヒントを求めて参照したスーザン・ロジャースのインタビューを一部引用します。最近復活したらしい Housequake.com において 2006年5月9日に掲載されたものです。ここでスーザンはとても鋭い発言をしています。

Housequake: In an interview Prince said: "You think Susan Rogers knows me?" he asked. "You think she knows anything about my music?". Susan Rogers, for the record, doesn't know anything about my music. Not one thing. The only person who knows anything about my music (pause for very pointed effect)... is me." How do you feel about this?
あるインタビューでプリンスはこう言いました。
「君はスーザン・ロジャースが僕のことを知ってると思うのかい? 彼女が僕の音楽について何かしらでも知ってると思うのかい? はっきり言っておくけど、スーザン・ロジャースは僕の音楽を何も知らないよ。彼女が知っていることは何ひとつない。僕の音楽を知っている唯一の人間は (強調のため間をおいて) …… 僕だよ」
これについて、あなたはどのように感じますか?

スーザン: Yes, Prince is correct on this, but only in one sense. In another sense, namely the experience of listening to music created by another, Prince knows his music the least. Because creating music and consuming music are two distinct processes.
そうね、プリンスの言い分は正しいわ。ただし、それはある意味に限定した場合のみにおいてね。別の意味では、つまり、他者によって作られた音楽を聴く経験をするという意味では、プリンスは自身の音楽を一番知らない人になるのよ。なぜならば、音楽を作るのと音楽を消費するのは二つのはっきりと異なるプロセスだから。

When a chef prepares a new meal, he knows everything that goes into it, including how he intended it to taste. So when he sits down to eat it, he already knows something about it, and that affects how it tastes to him. The customer who knows nothing about what went into the meal will taste it from a different perspective, one that the chef will never be able to experience. So the customer knows something about the meal that the chef will never know.
例えばシェフが新しい食事を作る時、彼はそこで使われる材料や調味料を全部知っているわね。それがどのような味にするためのものかという意図も含めてね。だから彼はその料理を食べる時、予めその料理のことを知っているわけよね。それは彼が感じる料理の味に影響を与えるものだわ。一方で何が使われているかを知らない客は、その料理を異なる観点から食べることになるわ。それはその料理を作ったシェフには決して味わうことができない経験よ。だからある意味、客はシェフには決して知ることができない何かを知っているという見方もできるの。

Prince fans know how his music makes them feel, regardless of whether or not he intended the music to move them that way. Only he knows what inspired a song or he wanted his music to say but there is a gap between how it felt to make it and how it feels to listen to it. Like a lot of things, it is a two-sided experience. Science isn't science until it is published; food isn't food until it is eaten; and art isn't art until it is interpreted.
プリンスファンは、プリンスがどういう意図で音楽を作ったかに関わらず、それを聴いてどう感じるかを知っているわ。ある曲が何にインスパイアされて作られたか、または音楽にどんなメッセージが込められているかはプリンスのみが知るところかもしれないけれども、それを作る人の気持ちと、それを聴く人の気持ちにはギャップが存在するわ。他の色々な物事と同じように、それは二面性のある経験なの。科学は発表されるまでは科学ではないように、食べ物は食べられるまでは食べ物ではないように、芸術は解釈されるまでは芸術ではないと言えるのよ。

これはとても鋭いものの見方だと思います。


話がズレたついでに、さらに別の話をします。

あるアーティストが不祥事を起こすと、そのアーティストの作品が回収や配信停止処分になることがあります。詳しくは知らないのですが、最近だと電気グルーヴでそういうニュースを目にしました。こういった事態が起きると、アーティストとそこから生まれる作品の関わりについてどのように線引きすべきかという議論になり、よく「アーティストの人格と作品は切り離して評価すべきだ。作品に罪はない」という主張を見聞きします。

私は、この問題についてはただ「そういう世の中なんだな」と思うだけなので、特に主張することはありません。ただ、プリンスは自らも "I am music." と発言したように、存在が音楽そのものなので、そもそも「アーティストの人格と作品を切り離す」という発想が出てきません。プリンスの場合はこういう議論は成り立たないな、と面白く感じました。


この記事の冒頭では、インストゥルメンタル曲「God (Love Theme From Purple Rain)」の秀逸なカバーをリンクしました。最後に「With You」のピアノカバーをリンクします。「With You」は私が人生で一番たくさん聴いているかもしれない曲です。これも素敵なカバーです。