「Breaking Bad」で、ストーリーとは関係ないところで印象に残ったこと2つのうち、前回は Steely Dan というバンドのことを書きました。もう1つについても書きたいと思います。

ドラマを見た人なら「ああ、それかあ」となるかもしれませんが、それはシーズン3-10「Fly」というエピソードです。このエピソードでは、アメリカ南西部エリアの流通網を握る Gus Fring が800万ドルを掛けて用意した麻薬密造のアンダーグラウンドラボに、一匹のハエが侵入します。主人公の Walter とパートナーの Jesse Pinkman はその侵入したハエを追い掛けることになります。

2人がお互いに秘密を隠し持っていることや、たった一匹のハエの存在をラボの「汚染」と考える Walt の偏執狂的な勢いで、独特の緊張感が張りつめた中でストーリーが進んでいくのですが、途中から「これは何かおかしいぞ」と妙な予感がしてきます。その予感は当たって、濃密にストーリーが展開するこのドラマの中で、このエピソードでは、2人がラボでハエを追い掛けるだけで45分が終わってしまいます。視聴者は見た後に何とも言いようのない脱力感に苛まれることになります。

調べてみたら、ドラマの製作予算が尽きてしまったということでこのようなエピソードが作られたのだそうです。このようにキャストやセットを制限して安く仕上げたエピソードを「ボトルエピソード」と呼ぶそうですが、「Fly」のエピソードは、その代表例の一つとなっています。

ちなみに、ネットには、海外の映画やドラマの情報をチェックするならとりあえずこれ、という IMDb というサイトがあります。そこでの「Breaking Bad」のユーザーレビューは 9.6 という異常な高評価で、当然各々のエピソードも総じて評価が高いのですが、この「Fly」のエピソードだけは 7.6 と並の評価になっています。肩透かし感の強いエピソードですが、それゆえにある意味有名なエピソードになっています。

英会話、今日のひとこと

Jesse: Oh man... He's got some skills, yo...

とにかく、この「Breaking Bad」というドラマは、まるで (個人的には、この人の小説を読んで感動できない人とは口も聞きたくないくらいと思うくらい私が好きな) 隆慶一郎の時代小説でも読んでいるような気分で楽しみながら見ていたのですが、「Fly」のエピソードを見て、ふと「影武者徳川家康」のあるシーンを思い出しました。

「影武者徳川家康」は隆慶一郎の代表作ですが、読んだことのある人は殆どいないと思うので簡単に紹介します。

隆慶一郎は、史料を調べる中で、後年の家康の人格がそれまでの家康とは別人のように変わっていることを疑問に思います。それだけでなく、家康は、熱望していた天下を取り江戸幕府を開くと、わずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲り、自身は大御所となり駿府に退きます。駿府は家康が幼少時代を過ごした地でもあり、この行動は徳川家で将軍職を世襲するため、と解釈するのが一般的には正しいのですが、著者は、江戸から離れ、まるで一個の独立国のような要塞を構える家康の行動に違和感を覚えます。

著者はそこから、正史には記されなかった事情として、本物の家康は既に死んでおり、後年の家康は実は別人が成り代わったものであり、その人物は秀忠と対立していたという構想を建てます。この構想を元に、正史で解釈が難しいところや矛盾するところを補強しつつ、見事にストーリーを再構築していきます。

この小説では、本物の徳川家康は関ヶ原の合戦で敵方の刺客に暗殺されます。家康の死を敵方に悟られることは徳川方の敗北を意味するため、家康の影武者を務める世良田二郎三郎は急遽本物の家康を演じて指揮を執ることになります。二郎三郎は、関ヶ原で勝利し徳川家に天下をもたらした後、秀忠に将軍職を譲ったタイミングで殺されるのが筋であったのが、正史には現れない秀忠との暗闘をしぶとく生き延び、遂に本物の家康として生を全うします。

紹介が長くなりましたが、「Fly」を見て思い出したシーンとは、終盤、新潮文庫だと下巻533ページからの、家康 (二郎三郎) が側室であるお梶の方と夜を共にしたある時のことです。

深夜にどうにも寝付けなくなってしまった二郎三郎とお梶の方は、茶室に抜け出して茶を飲むことにします。二郎三郎はもう73歳。家中の者を起こさないように本気で息を殺し、口を半開きにして夢中になって忍び足をする二郎三郎を見て、「こんなお爺ちゃまと人目を忍んで道行?」と可笑しさが込み上げますが、お梶の方も乗ってきて……というシーンです。

二郎三郎とお梶は深い絆で結ばれており、心に残るこのささやかなお茶の話は、私の好きなシーンの一つです。一方 Walt と Jesse はといえば、折につけて何か深いものを感じさせるのですが、よくよく考えてみるとあんまり深くないという、二郎三郎とお梶の関係と比べるのもおかしいくらい妙な関係です。でも、言ってみればこれもまたボトルエピソードみたいなものだなあと思い、この2つのエピソードが妙に重なってしまいました。